ジャンプ
Ski Jumping紙面復刻:船木和喜、満点の飛型点で金
<長野五輪1998年2月16日の日刊スポーツから>
22歳の若武者が、ついに世界の頂点を極めた。ジャンプ個人ラージヒルで、船木和喜(デサント)が1本目126メートル、2本目132・5メートルのトータル272・3点で金メダルを獲得した。2本目は五輪史上初めて5人の飛型審判員全員が20点満点をつける完ぺきな内容。ノーマルヒル「銀」に続く快挙は、日本悲願の五輪ラージヒル初メダル、1972年札幌大会70メートル級(現ノーマルヒル)優勝の笠谷幸生以来26年ぶりのジャンプ金メダルになった。原田雅彦(29)は、2本目に136メートルのバッケンレコードで銅メダルを獲得した。
地鳴りのような歓喜の声に、体が震えてきた。場内アナウンスの祝福の声。自分の飛距離が発表されるまで10分も待った原田が、体をぶつけるように飛びついてきた。競技場を埋めた3万4958人の大観衆が、ウエーブを繰り返す。ブレーキングトラックでスキーを高々と掲げて勝利をアピールする船木の周りで、お祭り騒ぎが始まっていた。
「昨日の晩は“金メダルを取ったら泣けるかな”って思っていた。でも、出ないもんです。うれしくて、うれしくて仕方がないのに」。11日のノーマルヒルで銀メダルをつかんだが、「失敗しての銀だから悔しいです」。メダル=うれしいもの、とは決めつけていない。この日も涙はなかった。型破りな、これまでの常識では計り知れない王者の誕生だった。
勝ちっぷりは、完ぺきだった。1本目はわずかなミスがたたって126メートルの4位。そのジャンプを「修正できた」という2本目が船木の真骨頂だった。優勝を、金メダルを求める大歓声の中、スキーの間に体をうずめるような深い前傾で、約3秒間宙を舞った。
132・5メートル。会場が沸き上がった。飛型は20点満点が5人。電光計時板の数字を見て、スタンドに無数の日の丸が揺れた。「(飛型が美しいという)武器を使わないで(飛距離で)勝つのが理想」と話してきた船木が、大舞台で二つともに完ぺきにやってのけた。昨年3月のホルメンコーレン大会(兼W杯)。船木は逆転で100年以上の伝統を誇る大会で、日本人初優勝を逆転で飾った。「あの時は9位から。9位より今日の4位は上でしょ。緊張はしていたけど、冷静でした」。事もなげに言ってのけた。
もともとは飛型点は良くなかった。フォームは定評があったが着地が下手だった。変身するきっかけになった、苦い経験がある。94~95年のジャンプ週間で、第3戦を終了した時点で総合トップに立った。2位はゴルトベルガー(オーストリア)。最終戦で順位が上の方が総合優勝というときに、ゴルトベルガーより飛びながら転倒し、敗れた。「悔しさは忘れたことがない。あれがあって今がある」。翌シーズンから血のにじむような着地練習が、世界一の「美型」を生んだ。
飛距離は天性のものだ。91年(平3)2月、余市旭中3年だった。北海道下川町のミディアムヒル(60メートル級)全国中学大会で、バッケンレコードを樹立して勝った。61メートルの記録は、同町で育った岡部も葛西も飛べなかった距離。何も恐れず遠くへ飛ぼうとする本能が、美しいジャンプを際立たせる。
日本悲願のラージヒル制覇だが、その感想は個性的だった。「“日本人初”とかいってカラに閉じこもり、芽の出ていないスポーツはいっぱいある。そういう表現は好きじゃない」。気の強い22歳は、昨年から英会話を習い始めた。「一番でなければ何番でも同じ。僕はてっぺんでなくちゃ、気がすまない」。世界を舞台に戦う決意表明だった。
92年アルベールビル大会で、日本はノルディック複合の荻原健司というヒーローを手に入れた。それから6年。日本の、いや世界のジャンプ界に、新しいスターが誕生した。 【阿部政信】
[2010年2月21日3時52分]
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