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長島逆転人生「銀」/Sスケート

長島は、ゴール後に転倒するも、そのままガッツポーズを繰り返した
長島は、ゴール後に転倒するも、そのままガッツポーズを繰り返した

<バンクーバー五輪・スピードスケート:男子500メートル>◇15日(日本時間16日)◇五輪オーバル

 スピードスケートの男子500メートルで長島圭一郎(27=日本電産サンキョー)が銀メダルを獲得した。1本目は35秒10の6位と出遅れたが、2本目でトップの34秒87をたたき出し、合計タイム1分9秒98で歓喜の瞬間を味わった。加藤条治(25=同)は1分10秒01と長島と100分の3秒差で銅メダル。2人は日本に今大会初のメダルをもたらした。スピードスケート日本勢の同じ種目での複数メダルは、92年アルベールビル五輪の黒岩敏幸の銀、井上純一の銅以来2度目の快挙となった。

 長島はすぐにはメダリストになったことを理解できなかった。最終組終了後、電光掲示板には1位牟太■と3位加藤しか表示されない。周りを見渡すと、泣きながら及川が叫んだ。「2番だよ! 2番!」。長島はやっと喜びを爆発させ、2階席にいる家族に向けて右拳を突き上げた。それでも半信半疑。首をかしげながら記者席の前で「オレ2位?」と報道陣に叫びながら確認したほど。やっと状況を把握して達成感がわき起こる。スタッフに渡された日の丸を振りかざし、至福の時間に浸った。

 1本目でまさかの出遅れ。レース前に整氷車のトラブルで1時間以上待たされ、リズムが狂った。「(最初の氷上アップから)2、3時間あいて休みすぎた。体をうまくコントロールできなかった」。動きが硬くなり、スタートとコーナーでミスが出た。トップと0秒24差の6位。メダルは遠のいたかに思われた。

 だが、勝負は捨てなかった。「転んでもいいから突っ込む」と決めた2本目。本場オランダの首脳陣から「世界一美しい」と称される重心の低いフォームが躍動した。足と氷との接地時間が長いため、氷面を強く蹴れる。その比類なき推進力が、34秒87という2回目の最速タイムを呼び込んだ。あまりの会心の滑りに酔いしれ、高村コーチとのハイタッチ後に勢い余って転倒してしまった。「そのままだと格好悪い」と倒れこんだまま両手を天井に突き上げて、取り繕った。

 高村コーチの先には今村代表監督がいた。「監督とハイタッチしたかった(笑い)。この5年間、監督とはいろいろぶつかった」。自分が信じた道は、今村監督に言われても曲げなかった。昨年3月の世界距離別選手権。7位とふがいない成績に終わった自分への怒りで取材ゾーンでほとんど答えずに素通りした。

 「ミックスゾーンへ戻れ!」(今村監督)「こんな気持ちじゃ話すことなんてない」(長島)。両者は激しく衝突した。だが約4時間後、長島は宿泊先で今村監督の部屋のドアをたたいていた。「すみませんでした、と言ってきた。本当は心優しい子」。今村代表監督は目を細めた。

 真剣にぶつかり合えたのも4年前のトリノ五輪の惨敗があったから。代表4人の中で最も無名だった。金メダル候補の加藤がテレビCMに出演した際にはリハーサルで代役を務めた。「5万円もらった。うまいと褒められた。プライドとか、関係なかった」。だが初出場の夢舞台で13位に終わり、人目もはばからず泣いた。帰国後、池田高時代の恩師、野村昌男監督に言った。「世界のレベルは違っていた。こんな甘ちゃんじゃダメです」。

 大学時代はマージャン、パチスロに明け暮れていた男の目の色が変わった。06年秋にショートトラックの本場韓国で五輪金メダリストらと練習し、コーナー技術に磨きをかけた。08年秋には1人山にこもってトレーニング。体重は4年間で5キロ増。世界一美しいフォームを形成する土台となった。トリノ五輪後翌シーズンはW杯4勝。1~3位までの“表彰台率”は同五輪前の5%から、この4年間で41%まで上昇した。「トリノが強くさせてくれた。あれがなかったら、このメダルはなかった」。

 2歳違いの加藤との内に秘めたライバル関係は何よりも、強さへの願望を加速させた。多くの場で「気にしない」と言ってきたが、本音も見え隠れした。昨年の世界スプリント選手権前には「500メートルだけ速い選手より、500と1000メートル両方速い選手が本当の強いスプリンター」と言った。加藤に対してのコメントではないが、500メートルを専門とする加藤への強烈なプライドが垣間見えた。

 トリノ五輪後にはW杯で8勝を積み重ね、通算7勝の加藤を上回った。同じ所属で、同じ場所で練習しながら、練習中に言葉を交わすことはほとんどない。そんなライバルが、銅メダルを獲得してうなだれているのを間近で見た。「同じチームでやってきて(加藤を)気にすることはないけど…。でもどっかで負けたくない気持ちはあった。日本で1番になれてよかった」と、珍しくライバル意識があったと認めた。

 あきらめない心は、メダリストから学んだ。日大入学後から92年アルベールビル500メートルの銀メダリスト黒岩敏幸氏の指導を受けた。黒岩氏は当初、長島の線の細さに「体力的に練習についていけなくて辞めるかと思った。帰省する時も『ちゃんと戻ってこい』と声をかけたほど」。日大の練習は先輩と後輩がパートナーを組んで行うが、長島は、あまり厳しくない先輩についていったという。

 だが黒岩氏もフォームの修正はしないほど、センスを感じていた。心掛けたのはメンタルの指導。ある時、長島が記録会で流しそうな雰囲気を感じた。「レースで手を抜いていいのは金メダリストだけ。(清水)宏保が抜くなら何も言わないが、お前が抜いちゃダメだ」。その言葉は今も長島の胸に焼きついている。「心の師匠(黒岩氏)に言われた。僕はレースでは手を抜かない。全力でやるだけ」。常に100%を尽くす姿勢が、この日の逆転2位浮上を生んだ。

 かつて心の弱さもあった半面、心優しい一面もある。父勝二さん(61)から1月中旬の世界スプリント選手権後に手紙を送られた。「自分らしく滑ってこい」。その文に対する返事をしなかったが、勝二さんらが日本をたつ前に「海外は大変だから気をつけて来て」と連絡した。父は「台風、地震などがあると必ず連絡してくる。ウチは農家なので、秋の収穫を心配してね」と明かす。

 長男として農家を継いでも不思議ではなかった。だが大学に進学する時点で父に言っていた。「農家やらなくて(継がなくて)いい?」。勝二さんは「たぶんスピードスケートの選手としてやっていこうという決意だったと思う。私も『圭一郎の思う通りにやりなさい』と言いました」。そして五輪へ続く1本道を歩み続けた。

 長島は銀メダルで1つのストーリーに区切りをつけた。「自分で自分のレースを見て感動した。今までで一番いい熱いレースだった」。レース前には覚悟があった。「メダルを取れなかったら辞めようと思っていた」。だが、27歳にして大輪の花を咲かせた。「遅咲きとか言われるが、自分はそう思わない。土台を作るために、わざといろいろな経験を積んできたから」。長島が歩んだすべての道がこの日のゴールにつながっていた。【広重竜太郎】

※■は金ヘンに凡

 [2010年2月17日9時38分 紙面から]


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