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ヨナとライバル物語の始まり/浅田真央3

2010年1月28日

 トリノ五輪の熱気が残る中で迎えた06年最初の大会で、浅田真央は負けた。相手は五輪で表彰台に立った荒川静香やコーエン、スルツカヤではない。06年3月の世界ジュニア選手権(スロベニア)。それまでジュニアの国際大会で無敗だった浅田は、同じ90年9月生まれで、当時15歳の金妍児(韓国)に24・19点という大差で2位に終わった。「近ごろ、そんなに悔しい思いをしたことがなかった。小学校5年生くらいで(姉)舞に負けた時以来かな」。悔しさを押し殺し、表彰台では自ら右手を差し出して金を祝福した。ライバル物語の始まりだった。

 総合153・35点は、約3カ月前にシニアで世界一となったGPファイナル(東京)で出した189・62点より、36・27点も低かった。ショートプログラムで、国際スケート連盟(ISU)主催の大会で、女子では初めてトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)に成功。だが予定していた2回転ループとの連続ジャンプは、1回転となった。フリーも3回転半を跳んだが、1回転半止まりと失敗。対する金は予選から2連続3回転、2回転半-3回転など高難度の連続ジャンプを決めていた。同年代では飛び抜けていた実力が、いつしか、もう1人の天才少女に追いつかれていた。

浅田真央
06年、世界ジュニア選手での浅田真央(左)と金妍児(共同)

 当時の山田満知子コーチは「もし金妍児さんがシニアに出ていたら、必ず上位に入ったはず。新時代はもう来ている」と、予感していた。浅田も「いいライバル。ずっと一緒にやっていくだろうし、お互いに頑張れれば」と、ガムシャラに追いかけた、トリノ五輪のメダリストたちとは違う感情を抱いた。

 浅田はシーズン終了後に、山田コーチのもとを離れた。より重点的に練習ができるようにと、山田コーチの親心で米国へと練習拠点を移すことになった。(つづく)【高田文太】


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冬のヒロイン
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バンクーバー五輪代表の女性アスリートを取り上げた日刊スポーツ紙面連載です。

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