里谷多英(上)ギリギリを乗り越える力
2009年8月19日
98年長野五輪の女子モーグルで金メダルに輝いた里谷多英(フジテレビ)が、5度目の五輪に挑む。02年ソルトレークシティー五輪で銅メダルを獲得するなど、五輪での実績は群を抜く。6月で33歳になった里谷の今を追う。
里谷は今、オーストラリアの雪上を滑っている。6日に日本をたち、21、22日にはコンチネンタル杯に出場を予定する。上村ら全日本チームの選手たちと一緒に、半年後への準備を進めている。
今でこそ、順調な道のりを描いているように見えるが、順風満帆ではなかった。06年2月のトリノ五輪後、丸2年も試合から遠ざかった。首や腰の故障が相次ぎ、体調の回復に時間がかかった。復帰戦となった08年2月のW杯猪苗代大会も予選落ち。五輪のプレシーズンだった昨季当初は、世界を転戦するW杯代表から漏れた。実は今年に入ってからも2度、引退の危機に直面していた。
引退危機その1 五輪を目指すには、W杯メンバーに入ることが最低条件になる。W杯復帰のため、下部大会の北米杯出場を決めた。1月に4試合があり、全日本スキー連盟から出された復帰への条件は「3位以内に入ること」だった。
里谷 入れなかったら、辞めようと思っていました。ここで3番以内に入れなかったら、W杯に行っても駄目だって気持ちもあったから、終わりにしようと思ったんです。
全日本のジュニアチームに加わった五輪メダリストは、10代の選手たちに気を使った。いつも自然体の里谷は、愛嬌(あいきょう)を振りまいたりすることはあまりない。
里谷 若い子ばっかりだから、私が入って嫌な雰囲気になっちゃいやだと思って、笑顔でいるように努力しました。無駄なくらい、すごい笑顔でしたよ。
結果、初戦で3位に入り、W杯への道を開いた。
引退危機その2 2月からW杯に戻ったが、すぐに結果は出なかった。2戦続けて、予選敗退。3月の世界選手権まで1カ月を切っていたが、このままでは代表入りがままならない。「(世界選手権に出られなかったら)終わりですよね、そこで。駄目なら、ここで辞めようかな、というのはありました」。
苦手のエアが原因だった。横に360度回転する「ヘリコプター」が決まらず、得点が伸びない。転んでも、バランスを崩しても、この技にこだわったのは、できなければ世界トップと戦えないとの自負があったからだ。だが、欧州遠征中の宿舎で若手から言われた。「多英さん、ツイツイスプやった方がいいですよ。ここは、予選を通っておいた方がいいですよ」。ツイツイスプとは、ダブルツイスタースプレッド(2回左右にひねって、開脚する)のこと。技の難度は落ちるが、無難に得点できる。里谷は耳を傾けた。
里谷 「じゃあ、分かった」って言って、最後の試合だけやったら、予選を通った。それで(世界選手権代表に)ギリギリ決まったんです。
チームメートの助言がなければ今ごろ、里谷は引退していたかもしれなかった。世界選手権は、デュアルモーグルで4位入賞。世界で戦える実力を示した。3位以内なら、五輪に内定したが、あと1歩届かなかった。里谷はかねて「その方が、私は頑張れる」と言う。「周りの人に『多英は内定してちゃ駄目だわ』ってよく言われるんですよ」。
ギリギリの状況を乗り越える力が、里谷にはある。【佐々木一郎】
◆里谷多英(さとや・たえ)1976年(昭51)6月12日、札幌市生まれ。4歳でスキーを始め、89年、札幌新陽小6年でモーグルに転向。同年の全日本で初出場初優勝した。東海大四高、北海道東海大をへて、05年にフジテレビ入社。五輪は、94年リレハンメル大会11位、98年長野大会金、02年ソルトレークシティー大会銅、06年トリノ大会15位。166センチ、55キロ。
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